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もしもし、そこの読者さま

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一行の詩の、最初の言葉のために 文月悠光『洗礼ダイアリー』(ポプラ社)を読みました。

 

洗礼ダイアリー

洗礼ダイアリー

 

 

 文月悠光さんの初エッセイ集『洗礼ダイアリー』(ポプラ社、2016・9)を読みました。文月さんの詩がとても好きで、けっこう色んな人に勧めたりするくらい好きだったりします(一番好きなのは「天井観測」! 同じ大学の後輩で、ゼミも同じらしいことも相まって、ずっとひそかに応援しています・・・)。

 今回、初めてエッセイを読むことができました。あとがきにこのエッセイを書くことにした契機となるエピソードが紹介されていました。歌人穂村弘さん(この人はエッセイを多く書いている方ですね)の助言(?)があったそうです。web astaでの同名の連載を一冊にまとめたものなのですが、タイトルの通り、文月さんが様々な経験をする中で受けてきた、社会からの「洗礼」にまつわる話題が中心を占めています。この点は、それこそ、穂村弘さんの『現実入門』を彷彿とさせ、同書を「本歌取り」してこの『洗礼ダイアリー』が生まれたのかなと勝手に想像しました。

現実入門―ほんとにみんなこんなことを? (光文社文庫)

現実入門―ほんとにみんなこんなことを? (光文社文庫)

 

 

 また、ご自身が言葉や行いなどの形で浴びせられた心無いセクハラや、眼差されたそのまなざしについて、鋭く問うていくような文章も収録されています。「セックスすれば詩が書けるのか問題」と題した回が、そのことを一番ストレートに取り上げている回でした。昨年公開されるやいなや各方面で反響を呼んだ、文月さんの別のエッセイも思い出されました(cakesで連載されている「臆病な詩人、街へ出る」の第9回「私は詩人じゃなかったら「娼婦」になっていたのか?」)。

cakes.mu

note.mu

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 文学や芸術の名のもとであれば、相手に不快感を与えるようなセクシュアルな言動が許されると思ったら大間違いですよね。もし仮に芸術に「聖域」性のようなものがあるのだとしても、それは、愚か者どもの「治外法権」を認めてやるためじゃないからな!と。というか、いかなる場であっても圧倒的にナシでしょと。

 

 文月さんと言えば、ミスiD 2014にエントリーしていたことが思い出されますが、その体験にも触れながら、自撮りの流れるタイムラインについて綴っている「自撮り流星群」の回がすごく良かったです。素敵なメタファー!

 それから、身内との距離感とか死別について書かれた「祖母の膝」も胸に沁みました。私が学部生の時と院生の時に父方の祖父母をそれぞれ亡くした時の記憶がよみがえりました。どちらの時も怖くて怖くて、一連の儀式が終わった後に父の田舎にもう一晩留まることに耐えきれなくて、一人だけ東京に帰らせてもらったことを鮮明に思い出しました。「これ以上近い人の死を間近で見ることは、(たぶん)何十年か先のことになるのだけれども、そのことに慣れることができないし慣れたくもないよなあ、逃げ出したいよなあ」と今でも考えてしまう自分の死生観に思いを馳せる読書体験でした。文学作品やエッセイって、自分ではない人間の考えや経験を覗き見させてもらう読み物のように見えて、実は自分自身を読むための読み物でもありますよね。イーザーさんの言う通り!

 『洗礼ダイアリー』には小説家の堀江敏幸さんもチラッと登場するのですが、この本を読みながら堀江敏幸さんの書かれた「火事と沈黙」という文章(『バン・マリーへの手紙』に収められています)が思い出されもしました。正確には、その文章で引用されている『マルテの手記』の一節を思い出したのですが、「詩は感情ではなくて経験である」という主旨を述べた一節が、堀江氏の「火事と沈黙」の中では鮮やかに紹介されています。文月さんが受けた様々な「洗礼」は、彼女がこれから先に発表されるであろう詩の最初の言葉につながる経験になっていくのだろうなと思うと、ますます目が離せないと思いました。

バン・マリーへの手紙

バン・マリーへの手紙

 

 

マルテの手記 (岩波文庫)

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