オフが欲しい!
在宅勤務が嫌になってきてしまった。本来オフの時間を過ごす場所であるはずの家で仕事をするのはやはり調子が狂う。数日ならよいけれど、何日も過ごしていると、自分がオフになれる場所はどこだったっけかと思い始めてしまう。
家でもワイシャツに着替えるようにしたり、じっくり時間をかけたお風呂タイムなどを設けたりしたらだいぶマシになったけど、精神衛生上良くない生活をしている感じは拭いがたく残る。ちゃんと運動をしないといけないと思うあまり、ハードすぎる散歩をしがちなのも疲労感に拍車をかけている気がするので、やり過ぎには気をつけたい。
とはいえ、久しぶりに出勤したりすると自分の思い通りのリズムでは仕事が進まないことが多々あって、それがやはり相当ストレスに感じるので、結局は無い物ねだりなのかもしれないという境地に至っている。オンオフの境目が曖昧になるのと引き換えに手に入れた自由。数日前に、いとうせいこう氏が私たちの置かれた状況の変化を「立ち止まった」状態と、「走らされた」状態として比喩的に表現していてとても腑に落ちたことがあった。
一昨日、コロナ以後の世界について、するするとこんな原稿を書いていた(『もしアフター・コロナになって以前と同じように「走らされて」も、もう私たちは「立ち止まった」時の自分たちの変化を忘れることは出来ない』)。深い実感だ。掲載時にお知らせするので、前後も読んで欲しいです。
— いとうせいこう (@seikoito) 2020年5月22日
「走らされ」るのが当たり前だった私たちは、「立ち止まっ」て初めて目にした物事に酷く動揺しているようである。これまで、走らされながらもある程度きちんと周りを見回すことができていた人達は冷静でいられているように思うが、そうじゃない人々が無視できない規模でいることが明るみになっているようだ(薄々分かっていたけど)。とりわけ、「自分は大丈夫な国/社会に住んでいる」と思い込みたい人達の動揺が、他人への攻撃に向かってしまっているようで悲しい。エーリッヒ・フロムやバーリンの議論や、マクルーハンが論じたメディアの四つの機能についての議論の正しさが証明されているなあ、としみじみ感じると共に、悠長に感心している場合じゃないヤバさに私自身が疲弊している。
最近の数少ない良かったことは、本屋さんにかなり行きやすくなったことくらいか。先日また何冊か本を買ってしまった。行きつけのバーがもう少しで営業再開するという知らせも嬉しかった。 良い本や映画などから自分の栄養になりそうなことをいっぱい吸収して、来たるべき日に備えて武器を磨くしかない。
散歩ルートにたくさんの猫に会える通りがあって、先日たまたま、彼らが一堂に会する場面に遭遇できた。