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ルポ? 教科書? エッセイ? 姫乃たま『潜行 地下アイドルの人に言えない生活』(サイゾー)を読みました

 現役の地下アイドルとしてマルチに活動している、姫乃たまさんの『潜行 地下アイドルの人に言えない生活』(サイゾー、2015・9)を読みました。というよりは、読み終えたっきり、何も言語化できずにいました。「一体この本は何なのだ」と、私の中で消化しきれていませんでした。

潜行~地下アイドルの人に言えない生活

潜行~地下アイドルの人に言えない生活

 

 この本が出た当時は、アイドルの文化に対する私自身のコミットが浅かったというのもあります。また、初めて好きになったグループがあっという間に空中分解を遂げるまでの一部始終を見届けて落ち込んでしまい、この本を読み返すのがかなり辛くなっていたというのもありました。そうこうしているうちに2017年。時の流れの速さに驚愕しています。

 色々あったけれども、およそ1年半を経てようやく私なりのこの本の感想とか考えたことなどがまとまってきたような気がしているので、遅ればせながら感想を書きたいと思います。結論を先取りして言うならば、この本は「教科書」なのかもしれないと感じています。

 この本は、途中で対談を挟みつつ、3つのパートで構成されています。それらをそれぞれ第1部~3部とナンバリングしておきます。

 第1部は「地下アイドルの耳の痛い話」と題した文章で、4つの章から成っています。姫乃さん自身が体験した話や、地下アイドルの界隈で目にした別のアイドルのエピソード、あるオタクのエピソードなどが紹介されています。ここで紹介されている別のアイドルの子にまつわるエピソードの内容が結構エグくて、心を病んでしまったような人や、風俗やAVの世界に転じたいった人や、事務所の社長とズブズブと生臭い関係になっていった人の話など、ただでさえ光の当たることが少ない地下アイドルの世界の、暗部を綴ったルポのような文章となっています。

 私は最初にこの文章を読んだ時に、どうしてこんなに悲しいエピソードばかりを書き残しているのだろうかと少し戸惑いました。何のために自分以外の子の悲惨な末路を記録しているのだろうかと(※少し前向きなエピソードもあります)。それぞれのエピソードを読み終えるたびに、「ま、私はこうはなっていませんけどね♪」とでも言いたいつもりなのかしら、と卑屈な感想さえ浮かんでくるようになっていました。しかし、それは大きな間違いでした。おそらく、姫乃さんは、どんなに悲惨な末路をたどったアイドルだとしても、その子たちのことを忘れてしまわないように自分の本の中に書き残そうと思ったのではないかと思いなおすようになりました。

 第2部は「さとり世代の地下アイドルステップアップ論」。このパートは、姫乃さんがいかにして現在のような位置を占めるに至ったかを記述していくパートになっています。そういう意味ではエッセイのような味わいもあるのですが、「はじめに」と「おわりに」が設けられた章立てになっており、「論」と題している通り論文の体裁をとっている文章でもあります。姫乃さんがいかにして活路を見いだし、地下アイドルとして食べていけるようになったのかというサクセスストーリーでもあります。この本に対してやや卑屈な感想を抱いていたころの私は、「やっぱり自慢話か・・・」というような感想を持ってしまいましたが、冷静に読み返してからはガラッと印象が変わりました。これは非常に素晴らしい地下アイドル論です。

  特に感心したのが姫乃さんによ「地下アイドル」の定義です。「はじめに」の中で次のように定義されています。

本書では、本人が自称している肩書きに関係なく、ライブ活動をしていて、ファンとチェキの撮影をしているアイドルは、地下アイドルであると定義します。(P95) 

 これはとても明快な定義だと思います。姫乃さんは、「この定義に沿うと、メジャーレーベルから流通しているアイドルでも、地下アイドルに含まれる」場合もあると分かったうえで、「ゼロ年代後半からのアイドルシーンにおいて、重視すべきはインディーズ(地下)らしいファンとの距離の近さ」であるという考えを展開しています。私なりにこの定義に補足を付け加えるとしたら、「チェキをメンバーと一緒に撮ることができる権利そのものを直接販売しているアイドル」とすれば、メジャー寄りのアイドルを排した、より狭義の定義ができるのではないかと思っています。集客の規模が大きくなり、CDやDVDを何枚も積まないとチェキを撮る権利を得られなくなってしまったアイドルは、地下から一歩抜け出している感じがするので、いかがでしょうか?笑

 第1章以降は姫乃さんのこれまでの歩みが綴られていきます。誰にも真似できない姫乃さんだからできた歩みだと思います。姫乃さんの文化資本の高さと利発さは、地下アイドル界屈指なのではないかと思います。そんな中でも、他の地下アイドルの子や、地下アイドルなりたての子にとっての示唆が数多く含まれていて、これは地下アイドルの教科書だ!と何度も読む中でようやく分かってきました。個人的に悲しい「他界」を経験して卑屈モードになっていたころは、その部分を全く読み取れていませんでした。

 自分の中で、『潜行』の解釈が変わったきっかけというのがあって、それは、夢眠ねむさんの『まろやかな狂気』を読んだことでした。夢眠さんは、教科書となるようにあの本を作ったということを、本の中ではっきりと述べていました。姫乃さんは自分の本の位置づけについてあまり述べていないようです(イベントなどで言及されてたかもしれませんが。刊行記念イベントとか行けばよかった!!)。様々なインタビューや書評を読む限りでは、自身が愛おしく思っている地下アイドルの文化について啓蒙したいという意図や、生きづらさを感じている人への意識があるようです。『まろやかな狂気』を読んでからは、『潜行』もまたアイドルの教科書になるのではないかと思い始めました(もちろん、かなり硬質なアイドルの研究本でもあると思います。一つのジャンルに腑分けできないところが『潜行』の魅力であり、姫乃たまさんというタレントの魅力でもあるのかもしれません)。

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 第3部の「わたしのアイドル観察記」は、第2部よりも砕けた調子で、地下アイドルの世界について分析と考察が重ねられています。「卒業」とは何なのか、「地下アイドル」と呼ばれることを嫌い「アーティスト」を名乗りたがる地下アイドルの問題、「恋愛禁止」問題、承認欲求のお話など、非常に多岐にわたっています。第3部は、容易に答えが出ない問いについても言及されていて、それがすごく面白かったです。

どうしたら、解雇や脱退でなく、「卒業」ができるのでしょう。彼女たちは、いつか来る辞め時に対して、どのように振る舞って、いつ決断することを求められているのでしょうか。(P182)

私はいまでも、キスマークをつけて愚痴をこぼす女子高生と、体の傷を増やしながら笑顔でいる地下アイドルとの距離が、どれほど離れているのか摑めずにいます。 (P195)

 長々と感想を書いてきましたが、文章のほかに写真もたくさん収録されていて、姫乃さんの魅力がたくさん詰まった素敵な本でした。とりあえず、駆け出しの地下アイドルを好きになったオタクは、自分の推しの子に『潜行』と『まろやかな狂気』をセットでプレゼントしたら良いのではないかと、割と本気で思います!笑 たぶん嫌われると思うけど(笑)

 

 ところで、私は姫乃さんが出演したイベントに複数回足を運んだりしています。初めて姫乃さんを生で拝見したのは、昨年の夏頃にLOFT9で行われたトークライブでした。登壇中でもお構いなしに、ものすごい勢いでお酒を召し上がっていく姿が印象的でした(笑) あと、うなずく動作がとても可愛らしかった! そんな姫乃さんはワンマンライブを2月に控えています。行かねば!! アルバムも買って予習しないとな。 

First Order

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↓初・姫乃たまさん現場の記録です。

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 年明けに公開された宗像明将さんのインタビューがめっちゃ面白かったです。 

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一行の詩の、最初の言葉のために 文月悠光『洗礼ダイアリー』(ポプラ社)を読みました。

 

洗礼ダイアリー

洗礼ダイアリー

 

 

 文月悠光さんの初エッセイ集『洗礼ダイアリー』(ポプラ社、2016・9)を読みました。文月さんの詩がとても好きで、けっこう色んな人に勧めたりするくらい好きだったりします(一番好きなのは「天井観測」! 同じ大学の後輩で、ゼミも同じらしいことも相まって、ずっとひそかに応援しています・・・)。

 今回、初めてエッセイを読むことができました。あとがきにこのエッセイを書くことにした契機となるエピソードが紹介されていました。歌人穂村弘さん(この人はエッセイを多く書いている方ですね)の助言(?)があったそうです。web astaでの同名の連載を一冊にまとめたものなのですが、タイトルの通り、文月さんが様々な経験をする中で受けてきた、社会からの「洗礼」にまつわる話題が中心を占めています。この点は、それこそ、穂村弘さんの『現実入門』を彷彿とさせ、同書を「本歌取り」してこの『洗礼ダイアリー』が生まれたのかなと勝手に想像しました。

現実入門―ほんとにみんなこんなことを? (光文社文庫)

現実入門―ほんとにみんなこんなことを? (光文社文庫)

 

 

 また、ご自身が言葉や行いなどの形で浴びせられた心無いセクハラや、眼差されたそのまなざしについて、鋭く問うていくような文章も収録されています。「セックスすれば詩が書けるのか問題」と題した回が、そのことを一番ストレートに取り上げている回でした。昨年公開されるやいなや各方面で反響を呼んだ、文月さんの別のエッセイも思い出されました(cakesで連載されている「臆病な詩人、街へ出る」の第9回「私は詩人じゃなかったら「娼婦」になっていたのか?」)。

cakes.mu

note.mu

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 文学や芸術の名のもとであれば、相手に不快感を与えるようなセクシュアルな言動が許されると思ったら大間違いですよね。もし仮に芸術に「聖域」性のようなものがあるのだとしても、それは、愚か者どもの「治外法権」を認めてやるためじゃないからな!と。というか、いかなる場であっても圧倒的にナシだと思います。

 

 文月さんと言えば、ミスiD 2014にエントリーしていたことが思い出されますが、その体験にも触れながら、自撮りの流れるタイムラインについて綴っている「自撮り流星群」の回がすごく良かったです。素敵なメタファーです。

 それから、身内との距離感とか死別について書かれた「祖母の膝」も胸に沁みました。私が学部生の時と院生の時に父方の祖父母をそれぞれ亡くした時の記憶がよみがえりました。どちらの時も怖くて怖くて、一連の儀式が終わった後に父の田舎にもう一晩留まることに耐えきれなくて、一人だけ東京に帰らせてもらったことを鮮明に思い出しました。「これ以上近い人の死を間近で見ることは、(たぶん)何十年か先のことになるのだけれども、そのことに慣れることができないし慣れたくもないよなあ、逃げ出したいよなあ」と今でも考えてしまう自分の死生観に思いを馳せる読書体験でした。文学作品やエッセイって、自分にはない考え方や経験を覗き見させてもらう読み物のように見えて、実は自分自身を読むための読み物でもありますよね。

 『洗礼ダイアリー』には小説家の堀江敏幸さんもチラッと登場するのですが、この本を読みながら堀江敏幸さんの書かれた「火事と沈黙」という文章(『バン・マリーへの手紙』に収められています)が思い出されもしました。正確には、その文章で引用されている『マルテの手記』の一節を思い出したのですが、「詩は感情ではなくて経験である」という主旨を述べた一節が、堀江氏の「火事と沈黙」の中では鮮やかに紹介されています。文月さんが受けた様々な「洗礼」は、彼女がこれから先に発表なさる詩の、最初の言葉につながる「経験」になっていくのだろうなと思うと、ますます目が離せないと思いました。

バン・マリーへの手紙

バン・マリーへの手紙

 

 

マルテの手記 (岩波文庫)

マルテの手記 (岩波文庫)