もしもし、そこの読者さま

ライブアイドルのライブレポ、Sexyzoneのライブレポ、映画・舞台・本などの感想などなど

アイドルとオタク 続ける自由、変わる自由、辞める自由、推す自由 ライブアイドルオタとジャニオタの差異から考える

 オタクとしての自意識、もう少し言い方を変えれば、アイドルが提供するエンターテインメントの消費者としての自意識について、友人と一対一で議論をする機会があった。相手は、「自分の欲望をアイドルに押し付けてしまうこと」、「自分が応援することで、アイドル自身へプレッシャーや束縛がのしかかっていくことに加担し得るということ」に胸を痛めてしまうのだという。

 それに対する私の答えはこうだ。「彼ら彼女らは、好き勝手な眼差しや欲望を浴びせられることを覚悟し、それを引きうけた上でプロとしてステージに立っているはず。自分の欲望をぶつけることに及び腰にならなくてもよいのではないか」。しかし、相手にとっては、「人を傷付けうることに自分が加担することそれ自体がしんどい」のであり、「アイドルが実際に傷付いたかどうか、アイドルがそのことを先刻承知であるかどうかによって、自分の後ろめたさが減じられるわけではない」のだという

 そこで、「アイドルに自分の欲望を押し付ける」とは、具体的にどのようなことなのかを尋ねてみた。いわく、「もっとこういう仕事をしてほしい」「そのままでいてほしい」といった直接的な要求の形を取ったものだけでなく、性的に眼差すことや、「かわいい」「かっこいい」と思うことも含めてだという。これはとてもよく分かる。欲望の「投影」と呼んだ方が分かりやすいかもしれないが、アイドルを応援するものは誰しも、何らかの形で彼ら彼女らに自分の欲望を投影する。「応援」も「期待」も「口出し」も「認知を求めること」も、全て欲望の投影である。

 しかし、私はそれでもやはり、欲望を投影することに後ろめたさは感じない。そもそも私は、アイドルに対して「こういうことをしてほしい」「そのままでいてほしい」等の想いを抱いたことがあまり無い。向こうから飛び出してきたものを粛々と受け取るタイプのオタクだと自覚している。面白いことを次々と仕掛けてくるアイドルに、ビックリさせられることが好きなので、ああしてほしいこうしてほしいというようなことをあまり思わないのだ。「かわいいなあ」という眼差しを浴びせていることは否定しないけれど、そこに関しては先述の通り、「彼ら彼女らは、好き勝手な眼差しや欲望を浴びせられることを覚悟し、それを引きうけた上でプロとしてステージに立っている」と考えているので、後ろめたさの意識は持たないようにしている。もっと言えば、後ろめたさの意識を持つことは、相手を「プロ未満」「同情の対象」と見なすような、失礼な見方になってしまうのではないかと思っている。ただ、この論法が非常に危険であることも承知している。それでもやっぱり傷付いてしまうアイドルは、きっといるだろうから。議論の中でそのことも指摘されて、もっともな指摘だと思った。

 しかし、その議論の時には上手に言えなかったが、私はこうも思う。アイドルにはアイドルを辞める自由があるじゃないかと。実を言うと私は、アイドルに「こうあってほしい」と思ったことが一度も無かったわけではない。これまで幾度もタルトタタンのライブレポや応援の言葉を当ブログで書いてきたが、そこではかなり明確に「このまま続けていってほしい」という欲望を吐露してしまった。しかし、結局タルトタタンはメンバー2名が脱退を表明し、活動が終了した。

 

lucas-kq.hatenablog.com

 

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 正直残念に感じたし、心からそのことを惜しんだけれど、わりとすぐに「これでよかったんだ」と思うようになった。アイドルがアイドルを辞める自由があるのってすごく健全なことだと思ったのだ。自分の意志によってアイドルになることを選んだアイドルが、いつでもアイドルを辞める自由が保障されている限りにおいて、推す側は、アイドルに欲望を投影することに罪悪感を持たなくてよくなるのではないかと思う。しんどくなった時の退路がしっかり確保されているのだから。

 

 しかし、私はこの議論をしていたオタ友の抱える悩みの深さを正確に理解できていなかった。アイドルのオタクであることは同じでも、推しているアイドルの活動の規模が全く違っていたのだ。この初歩的な前提の部分における差異が、いかに重大であるかを不覚にも見落としていた。私はいわゆるライブアイドルのオタクであるが、相手はジャニーズのオタクであった。

 この違いの重大さに気づいた時に、私の頭の中で思い起こされたのは、ジャニーズ事務所に所属するタレントたちの起こしたハプニングと、脱退の歴史だ。法に抵触する行為をして解雇になったメンバーは論外として、そこには、デビューを迎えて稼ぎの一角を担うようになったメンバーにとって、ジャニーズ事務所を辞めることがいかに難しいかが現れてはいないだろうか。いくつかのグループで、何人かのメンバーが脱退をしたり、脱退や解雇には至らないまでも、世間を騒がせる事件を起こし謹慎したりしたことがあった。ひょっとして彼らの中には、自らスキャンダルを起こしてアイドル生命に刃を突き立て、ジャニーズ事務所所属のアイドルという立場から降りようとした人もいたのではないか、そして、そうでもしなきゃ辞めさせてもらえないのがジャニーズ事務所なのではないかと勘繰りたくなってしまうのだ。SMAP以降のユニットの、アイドルとしての君臨期間は、女性アイドルでは考えられない長さである。ここには、自らの意志で降りることができないしんどさがあっても不思議ではないように思える。「春を殺して夢は光っている」の名文句を歌ったのは大森靖子であるが、醒めることができない夢が放つ光の異様さ・恐ろしさについて考える時が来ていると思う

 その点、ライブアイドルは辞める自由を行使しやすい。何しろ、タルトタタンの2人が脱退したのは、ワンマンライブの直前だった。ジャニーズだったら、ツアー直前にメンバー全員が脱退をすることなど到底不可能だろう(それがあり得るかどうかは別として、あくまで可能/不可能の話として)。

 一緒に話をしていたオタ友の心痛を、完全にではないかもしれないけれども、今なら共感できる。容易に降りられないという地獄がそもそもの初めから横たわっていることを分かっていながら、それでもなお自分が推すアイドルには「やめないでほしい」「ずっとキラキラした姿を見せてほしい」と想うことを止められない辛さは、いかほどのものだろう。深い愛着を持ち、自分が推しているアイドルの息の長い活躍を望むことが、彼らが背負う十字架により一層の重みを加えてしまう辛さ、心苦しさ。それを、私はようやく理解したのだった。地下アイドルの辞めやすさ(?)は、その意味においてとても健全なのかもしれない。